Rag Time Betty - A Young Person's Guide to Ragtime
 
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ラグタイムについての解説

ラグタイム(Ragtime)とは何ですか?

 19世紀の末から20世紀初頭にかけて、発展・流行したアメリカ生まれの音楽のことです。広辞苑の第五版には「ラグタイム[ragtime]=十九世紀末にアメリカで起った黒人のピアノ音楽。シンコペーションを多用する黒人的リズム感覚を特色とし、ジャズの一要素となった。」とあります。フリーの百科事典「ウィキペディア」の Ragtime の項も参考になります。

 “RAG”とは、英語で「ぼろ・ぼろ切れ」などを意味する言葉ですから、“RAGTIME”は直訳すると「ぼろぼろの時間」といった意味になります。低声部に一定のリズムで和声的な旋律線を作り、それに対してずれた(Ragged)主旋律を高声部に作る、つまり「シンコペーション(Syncopation)」がラグタイムの最大の特徴であるので、このような名前が付けられたのだと推測できます。

 様式的な特徴としては、偶数の拍子(ほとんどが2/4拍子、4/4拍子で記譜された楽曲もあります。例外として、3/4拍子のラグタイム・ワルツも存在します)、16小節(あるいは32小節)の楽節、オクターブで奏でられる前奏や、楽節を連結するためのヴァンプ(Vamp)の存在、トニック(Tonic)、ドミナント(Dominant)、サブ・ドミナント(Sub Dominant)を強調するコード進行、などがあります。こうした様式は、ハバネラ(Habanera)という2拍子の舞曲、ブラジル風のタンゴ(Tango Brasileiro)、ケークウォークという2拍子の舞曲(Cakewalk、ステップダンスのコンテストでケーキが賞品だったことに由来する)、マーチ(March)、マシーシ(Maxixe)などの様々な音楽のスタイルを吸収することによって形成されました。

 ラグタイムを演奏する楽器は、ピアノが多いですが、ギターやバンジョーなどの弦楽器、あるいは小編成のバンドや吹奏楽などでも、編曲され、演奏されています。ラグタイムは、歴史上、最初に広範な人気と商業性を得たアフリカ系アメリカ人による音楽でもあります。

著名なラグタイムの作曲家は?

 一番有名なラグタイムの作曲家は、“ラグタイムの王(King of Ragtime)”と言われたスコット・ジョプリン(Scott Joplin、1868-1917)です。彼は、数多くの傑作ラグタイムを発表するにとどまらず、バレエ音楽やオペラも作曲した、才能豊かな作曲家でした。彼の書いた曲は、時代を超え、現在も多くの人々に親しまれています。古くは、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演の映画“スティング(1973)”のサウンドトラックとして、最近では、テレビコマーシャルのBGMとして耳にすることも多いです(例えば、SUZUKIの軽自動車“Lupin”のCMには「Pine Apple Rag」が使われていました)。

 次にジェームス・スコット(James Sylvester Scott、1885-1938)という作曲家が有名です。このウェブサイトのタイトルは、彼のラグタイムのタイトルからとったものです。彼の書いた曲は、完成度が高く、創意工夫に富んでいます。反面、職業的なラグタイムの作曲に徹しており、実験的な曲はあまり作っていません。前述のスコット・ジョプリンと、ジェームス・スコットの2人で、ラグタイムの2大作曲家とする見方があります。

 3人目にあげたいのは、スコット・ジョプリンの弟子、ジョセフ・F・ラム(Joseph Francis Lamb、1887-1960)です。彼の書いたラグはとても個性的で、情緒豊かです。以上の3人がクラシック・ラグタイムの父といわれています。

 他にも有名な作曲家は多数おり、トム・ターピン(Thomas M. J. Turpin、1873-1922)、アーサー・マーシャル(Arthur Marshall、1881-1968)、チャールズ・ハンター(Charles Hunter、1876-1906)、アーティー・マシューズ(Artie Matthews、1888-1958)、チャールズ・L・ジョンソン(Chas L. Johnson、1876-1950)、ジェームズ・リーズ・ヨーロップ(James Reese Europe、1881-1919)、ジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton、1890-1941)、ユービー・ブレイク(Eubie Blake、1883-1983)、ラッキー・ロバーツ(C. Luckey Roberts、1887-1968)、ウィリアム・ボルコム(William Elden Bolcom、1938-)、デヴィッド・トーマス・ロバーツ(David Thomas Roberts、1955-)などなど、枚挙にいとまがありません。

 ジムノペディで有名なエリック・サティ(Erik Satie、1866-1925)や、巨匠ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin、1898-1937)もラグタイムを書いていますし、ドビュッシーや、ストラヴィンスキー、ミヨーなどのクラシックの大作曲家は、ラグタイムに影響を受けた曲を作曲しています。

ラグタイムとジャズの違いは?

 ラグタイムとジャズは、どちらも黒人の音楽、アフロ・アフリカン・ミュージックをルーツとしています。しかし両者は、明らかに違う音楽様式を持っています。

 まず、アドリブ(即興演奏)の仕方に違いがあります。ジャズは、ほとんどアドリブで構成されるのに対し、ラグタイムは、バロック音楽風の装飾音の付加や、タイミングをずらすといったアドリブが主です。つまり、「最低限のメロディとコードを与えられ、後は演奏者次第」なのがジャズ、「基本は、楽譜に忠実な演奏をする(特にクラシック・ラグにおいて)」のがラグタイムといえます。

 リズムに関しても、ジャズでは、「スウィングする」などといって独特の“ノリ”が重要視されますが、ラグタイムはマーチ的な規則正しいリズムを基本としています。また、ジャズではブルース・ペンタトニック、いわゆるブルーノートを使用しますが、典型的なクラシック・ラグタイムでは、通常これらのスケールを用いません(でも、Scott Joplinの「Pine Apple Rag」などの例外もあります)。

ラグタイムの楽譜を入手する方法は?

 インターネットが広まる以前は、楽譜を手に入れるには、国内で出版されている楽譜を買うか、輸入楽譜を扱うお店で、注文して購入するしかなかったのですが、今は、インターネットで無料で手に入るラグタイムの楽譜があります。これは利用しない手はありません。また、輸入楽譜もネット通販を利用すれば(Amazon や、Skysoft など)、簡単に入手できます。本当に便利な時代になったものです。

 本格的なラグタイムの楽譜集を1冊購入するのであれば、Dover社から出版・発売されている“CLASSIC PIANO RAGS”がおすすめです。有名なラグタイムが81曲が掲載されており、充実した内容の楽譜集です。

 日本で出版されている楽譜では、、ピアニストの池宮 正信さんが監修された“ピアノ名曲集 アメリカン・ラグタイム”、“ピアノ名曲集 アメリカン・ラグタイム2”をおすすめします。この2冊の曲集は、曲の解説が充実している点と、音楽的に幅の広い選曲になっている点でおすすめです。

 また、アコースティック・ギターが得意な方、特にフィンガーピッキングを得意とする方には、ラグタイム・ギターに挑戦されることをおすすめします。ギター1本でラグタイムを奏でることができます。詳しくは、楽譜と書籍のページを参考にして下さい。

スコット・ジョプリン(Scott Joplin)って、どんな人?

 スコット・ジョプリン(Scott Joplin)は、1868年11月24日(※この誕生日は、不正確であるとの説があります)に、テキサス州マーシャルの近郊、あるいは、リンデンの近郊で生まれ、幼い頃のほとんどはアーカンソー州のテキサカーナで生活していたと言われています(テキサカーナはアーカンソー州とテキサス州の中間に位置する都市です。市の真中に州境があり、それぞれの州からの市長がいます。ジョプリンは、アーカンソー州側の黒人居住区で生活していたと伝えられています)。

 彼の父親のジャイルス(Giles Joplin)は、かつて黒人奴隷として農園で労働していた頃、バイオリンを弾いていました。彼の母親フローレンス(Florence Joplin)は、バンジョーと弾き語りを得意としていました。こんな環境の中、ジョプリンは7歳で近所の家のピアノを弾き始め、11歳になる頃には町でも評判となる程の腕前を身に付けていました。この頃彼は、テキサカーナに住むドイツ人のピアノ教師に付きクラシックの古典を数多く学びました(ジョプリンは、この恩を忘れず、後年、この教師が困窮した際、経済的援助をしたと伝えられています)。

 彼が14歳の頃、母親フローレンスが亡くなり、父親が商売(貿易業)を覚えるよう強要したため、1882年頃に故郷テキサカーナを離れ、ミシシッピ川流域で旅芸人として、酒場やカフェに教会、ビリヤード場や売春宿での演奏を始めます。1885年にはミズーリ州のセダリアに移り、セントルイスにあったトム・ターピンの“シルバー・ダラー・サロン(Silver Dollar Saloon)”で働いたり、アーサー・マーシャルやルイ・ショーヴィンらと仕事をしたりしています。

 1893年には、彼は、イリノイ州のシカゴで開催されたコロンビア世界博覧会に行き、演奏活動を行いました。1895年になると自ら率いるグループ「テキサス・メドレー・カルテット(Texas-Medley Quartet)」を結成、ニューヨーク北部での活動を行いました。1895年には2つのピアノ作品(「Please Say You Will」、「A Picture Of Her Face」)の初出版にこぎつけます。1897年になると、黒人のための大学“ジョージ・R・スミス・カレッジ(George R. Smith College)”に入学し、音楽理論や和声・作曲法などを学びます(この大学にはアーサー・マーシャルも通っていました)。この頃、ハンニバルの音楽店主、マリー・ウォーカー夫人(Mrs. Marie Walker)が、彼のラグタイムの作曲活動を助けていました。

 1899年の春、彼の初めてのラグタイム「Original Rags」が出版されました。続いて夏には、「Maple Leaf Rag」が出版されました。ミズーリ州のセダリアにある黒人クラブの“Maple Leaf Club”にちなんで名づけられた「Maple Leaf Rag」は絶賛され、空前の売り上げを記録しました。この曲は、彼の名を一躍有名にしました。この大成功の後、彼は、スコット・ヘイデンの義妹で未亡人のベル(Belle)と結婚をしました(しかし、この結婚は、二人の間の娘が夭逝したことなどがあり、後に破局しています)。1901年頃には、活動の場をセントルイスへ移し、作曲家の活動をより本格化させます。このセントルイス時代に作曲されたクラシック・ラグは各方面で絶賛されました。

 彼は、1907年頃、ジョン・スタークの事務所があるニューヨークへ引越しします。この頃、彼は、ジョセフ・F・ラム(Joseph F. Lamb)という白人の音楽家と知り合っています。ジョプリンは、若く才能のあるラムに協力を申し出、「Sansation」が出版されました。

 彼は、ニューヨークに移り住んでから、ライフワークともいうべきオペラ「Treemonisha」の出版に協力してくれる人を探していましたが、協力者が見つからないため、1911年に大金を投じ自費出版をしました。彼は、ヨーロッパの芸術作品に比肩する作品“オペラ”を最終目標とし、10年以上の長きに渡って情熱を注いできました。(このオペラの前にも、1903年にオペラ「A Guest of Honor」を作っていました。現在では、このオペラのスコアは失われています)。1914年には、予定されていた初演がキャンセルに終わり、翌年に初演を実現しました。満足な舞台の装置も無く、オーケストラもなく、衣装もない一回だけの上演は、大した反響も起こらず、興行的に失敗しました・・・。彼が心血を注いで完成させた 「アフロ・アメリカン民族のテーマを基盤とした」 オペラは、聴衆に受け入れられませんでした。白人の劇場主や観客は、黒人の作る小品(ラグタイム)には寛容でしたが、オペラを支持することは到底出来なかったのです・・・。また、黒人の中産階級の観客は、貧しい捨て子である黒人の女性(トゥリーモニシャ)が主人公であるストーリーを、不快に感じたらしいのです。

 1911年頃、彼は、最後の妻ロティ・ストークス(Lottie Stokes)を迎え入れますが、「Treemonisha」の失敗後、梅毒による体調不良が続き、1917年のエイプリルフールの日、彼はこの世を去りました(ワード・アイランドのマンハッタン州立病院にて、享年49歳でした)。

 時は流れ、1972年1月、ジョージア州オーガスタにあるモアハウス・カレッジ音楽学部と、アトランタ交響楽団はオペラ「Treemonisha」を蘇らせました。それに続いて、1975年5月には、ヒューストン・グランド・オペラが「Treemonisha」を上演、反響を呼び、ブロードウェイでも上演されるに到り、絶賛されました。同年、ジョプリンの楽譜は再出版され、1976年には、名誉あるピューリッツァー賞を受賞しました(SPECIAL AWARDS AND CITATIONS)。

 彼の音楽はいまでも、人々に愛され続けています。

ジェームス・スコット(James Scott)って、どんな人?

 ジェームス・スコット(James Sylvester Scott)は、1885年2月12日にミズーリ州のネオショーに生まれました。彼は、元黒人奴隷の父親ジェームス・スコット(James Scott)と、母親モーリー・トーマス・スコット(Molly Thomas Scott)の間に、長男として生まれました(6人兄弟のうちの2番目の子でした、リーナという姉が最初の子でした)。

 ネオショーに住んでいる頃、ジョン・コールマン(John Coleman)という黒人のピアニストに、ピアノと視唱の教えを受けました。ジェームスは、音程を言い当てるゲームが好きで、絶対音感を会得しました。

 13歳か14歳の頃にカンザス州のオタワに移り住みました。更に1900年には、カンザス州カースエイジに引っ越しました。彼の家にはオンボロなオルガンがあり、彼はそれで練習していましたが、ある日、彼の父親は、才能ある息子の為にピアノを買いました。ジェームスは、一家の家計を助けるためにカースエイジ理髪店の靴磨き少年などをしていましたが、デュマー(Dumars)楽器店で働き始めた時には16歳となっていました。

 1903年の時(ジェームス17歳の時)に、「A Summer Breeze」という最初の作品を、デュマー楽器店から出版させてもらえることになりました。1914年まで、この楽器店で働きながら作曲を続けました。1914年に、仕事の合間を見て、セントルイスに住むスコット・ジョプリンに会いにいった時、ジョン・スタークの出版社より自分の作品を出版することになり、「Climax Rag」などの傑作ラグを販売して、相当の成功を収めました。

 その後、ラグタイムの人気が衰えた1919年には、カンザス州カンザス・シティに戻り、1922年に最後のラグ「Broadway Rag」を出版し、それからは、劇場音楽家(無声映画に音を付けたりする職業)、バンドリーダー、アレンジャーなどとして活躍しました。妻ノラ(Nora)に先立たれた後、ルース・カラハン(Ruth Callahan)という、いとこの元に身を寄せて作曲活動を続けましたが、1938年8月30日、ダグラス病院で腎疾患、動脈硬化が原因で亡くなりました。

ジョセフ・ラム(Joseph F. Lamb)って、どんな人?

 ジョセフ・F・ラム(Joseph Francis Lamb)は、1887年12月6日、ニュージャージー州のモントクレールの白人家庭の4人兄弟の末っ子として生まれました。2人の姉は,クラシックの訓練を受けたピアニストでしたが、彼は、音楽教育なしで成長しました。彼は、主に姉達の演奏を聞くことによって、音楽を学びました、そして9歳の時には、最初のラグタイムを作曲しました。

 彼は、いつもスコット・ジョプリンの作品を愛し、彼のようにプレイするために、作曲とピアノを独習し、努力しました。ジョセフは、カナダのバーリンにあるセント・ジェローム大学に在籍し、後に、スティーヴンス大学工学部の入学試験も通過しましたが、ニューヨークでの仕事を優先し、入学をしませんでした。

 1907年、ニューヨークのマンハッタンにある音楽出版社ジョン・スタークのオフィスを訪れた彼は、スコット・ジョプリンと邂逅しました。ジョプリンは、白人のアマチュア・ラグタイム作曲家のジョセフに大変興味を抱き、助力を約束しました。一年後、ジョプリンが、アレンジャーとして名前を貸した作品「Sansation -A Rag」が、ジョン・スタークの出版社より売り出されました。この曲のヒットによって、それ以後は、“ジョセフ”の名前だけで売れるようになりました。

 彼は、1919年まで、ジョン・スタークの出版社から作品を発表し続けました。1919年以降は、ミルズという出版社から作品を出版する予定でしたが、結局出版はされず終いでした。

 その後、彼はニューヨークのブルックリンで貿易商を営み、音楽とは縁遠い生活を送っていました。彼は、作曲家・音楽家を稼業とはしませんでした。彼は、ただプライベートな時間のために自分の音楽をキープしていました。しかし、第二次世界大戦後、数年してから、ラグタイム史家・研究家のルディ・ブレッシュ(Rudi Blesh)が、ジョセフを発見してからは、レコーディングも行うなど、活動を再開しました。・・・1960年9月3日に心臓発作で亡ったときには、20曲以上の未発表ラグが見つかりました。

ラグタイムを演奏する際の右手と左手の役割とは?

 右手は、メロディーを奏でる手です。黒人のラグタイム作曲家たちは、旧奴隷制度からの解放・勝利の歓びを、左手のリズムからは「ずれた(Ragged)」メロディーで表現していました(ラグタイム史研究家であるルディ・ブレッシュ氏の説です。「COMBO : USA」の191ページ参照)。左手の規則正しい2拍子の制限から逸脱した、陽気で覚えやすく魅力的で誘うようなメロディー、それは自由を謳歌する黒人たちを象徴するものでした。また、悲しく響く和音は、いまだに差別的な扱いを受ける黒人の悲しみを表現していました。

 左手は、 2拍子のリズムを刻む手です。典型的なラグタイムのスタイルでは、左へ右へと素早い移動が要求されます。左手の奏でるマーチ的リズムは、黒人ラグタイム作曲家にとっては、特別な意味がありました。・・・それは、1900年代当時に存在したやっかいな法律(憲法修正第15条に抵触しないような形での州憲法による選挙権の剥奪)や、黒人の自由を奪おうとする南部の白人たちのねらいを象徴していたのです。

 1863年1月1日の奴隷解放令以来、1865年の憲法修正第13条(奴隷制の廃止)、1868年の憲法修正第14条(黒人への公民権付与)、1870年の憲法修正第15条(黒人への選挙権付与)、と幾度も合衆国憲法の修正が行われてきましたが、当時の黒人の権利拡大は、南部諸州の白人の力によって抑え込まれていました(黒人解放運動については、岩波書店刊「アメリカ黒人の歴史/本田創造 著」の一読をおすすめします)。

ラグタイムの協会・団体はありますか?

 世界には様々なラグタイムの協会・団体があります(Scott Joplin International Ragtime Foundationや、West Coast Ragtime Societyなど)。興味のある方は、そちらのウェブサイトを参照してみて下さい。日本には、日本ラグタイムクラブ(Japan Ragtime Club:通称JRC)があります。JRCは、ウェブ上での活動が主な活動になっており、会報もメールを使って送信しています。参加について、必要な資格や条件は特にありませんし、入会金や年会費なども一切存在しません。参加ご希望の方は、JRCのウェブサイトを参照して下さい。